おはようございます、6月の第3日曜日は《父の日》です。皆さま穏やかな日曜日をお迎えですか?
今日は私も父の話を書きます。…が、実をいうと私には父の存在はほぼほぼ無いに等しいので、書く《ネタ》がないんです。
うちの母は、私がまた幼い頃(おそらく1歳になるかならないかくらい)に私を連れて《離婚》し、その後も再婚はしなかったので、必然的に私は父親なしで育ちました。
物心ついた時からそうだったので、そういうもの(当たり前)だと思って育ちました。経済的には(=生活は)母がずっと働いていたので、特に何も無自由はありませんでした。
前にもブログに書きましたが、小学生の時に図工の授業で『お父さんの顔を描きましょう』という時に『先生!私はお父さんがいないので、誰の顔を描けばイイですか?』と質問し、『誰でもイイよ』と言われ『よっしゃー!』と、むしろ他人と違うことができることに対して喜んだ記憶があります。
私は幼い頃、祖母に『私のお父さんって何でいないの?』と聞いたらしく、祖母からは『あんたのお父さんは戦争で死んだ』と教えられていました。なので、私は誰かに聞かれるとそう答えていました。
が、今思えば超笑えます!
だって、終戦が昭和20年ですよね。私が生まれたのは昭和35年です。戦争で死んだ父親の子だったら、私は何年腹の中におったよ!って話しですよね(大爆笑)。…私はアンドロイドかい!
まあそんな感じで、特に父親がいなくても育ちました。…親はなくとも子は育つ、とはよく言ったものだ、その通りです。
でも、父親がどこのだれかというのは、確か小学6年生くらいの時に母から聞いた気がします。それまでに《おじちゃん》という人と会ったことはありました。いつもニコニコして、『頭の形が一緒だな』と、私の頭を撫でてくれるおじちゃんが父親だと知りました。…う〜ん?頭の形なんて誰でも一緒やろ。三角や四角い頭なんてないんだし。
で、私が結婚して、長男が生まれ、一度だけ父に会いに行ったことがありました。父にとっても《初孫》の長男を見て『賢そうなイイ子だな』と言った記憶があります。
その後何年か経ち、父は《COPD=慢性閉塞性肺疾患》になり、酸素ボンベを持ち歩く生活になったと聞きました。そのまた何年か後に『入院した』と聞き、病院へお見舞いに行きました。
容態は深刻で、本人は『もうダメだ』と言って、私に封筒を差し出して、『今まで何もしてやれなかった。少しだけだが何かの足しに使ってくれ』と現金をくれました。私は『お金なんかいらないよ』と返しましたが、『まあ持っていけ』と強引に渡されました。
『私、それよりおじちゃんの写真が欲しい』と言ったら、『そうか、確かあったぞ』と、自分の手帳だったかカバンの中に入っていた写真を出して私にくれました。…入院しとるのに、なんで自分の写真なんか持っとるんだ?とは思いましたが、なぜかあったんですよ。
で、お金と写真をもらって『じゃあ、早く元気になってよ』と言って帰りました。
その数年後、腹違いの姉からハガキが届き、『父が亡くなった』と教えてもらいました。…父は私の母と別れてから再婚して別の家庭があったので、もちろん葬式も行けませんでしたし、いまだに墓参りにも行ったことはありません。
今日のアイキャッチの写真が、唯一私の持っている父の写真です。
その写真をもらう時、『おじちゃんの写真が欲しい』と言って、《お父さん》という言葉が言えなかったことをちょっと悔やんでいます。
毎年《父の日》には、この写真を見て、『お父さん、私たち頭の形が一緒だね』と話しかけます。
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